小さい頃、この世界の不思議の答えを知りたいと感じていて、大人になったら、きっと誰かがその答えを教えてくれるんだろうと漠然と期待していました。
その反面、どこか心の奥底で、「わからることはできないんではないか」とも思っていました。
地球には万有引力があって、みんな地球に引っぱられている?
引っ張られてる感全くないんですけど?
地球が自転していて、太陽の周りを回っている?
北極では、1日かけてひとまわり、赤道では時速1,700kmで回ってる?、そもそも地球が時速10万kmで移動してる・・・?
宇宙が膨張し続けている?
その膨張している宇宙の外側には何があるの?
今見えているアンドロメダ銀河の光は、250万年前に発せられて光?
もう意味がわかりません。
子供の頃は、素直に疑問を持っても、誰も教えてくれないし、理解もできませんでした。
大人になると、こんな疑問にも一応の答えらしきものがあり、それなりの理解ができるものもあります。
でも、それさえ、「どうやらそうらしい」のレベルに過ぎなません。
大人になればわかる、誰かが教えてくれると思っていたことが、大人になればなるほど謎は深まり、不思議は不思議のままです。
それよりも、一番身近な自分自身の身体のことや、意識のことなんて、わからないことだらけ。
それなのに、そんなことにいちいち疑問を持っているなんて大人じゃない、科学者に任せておけばいい、宇宙の話ばっかりしてイっちゃってんじゃない、なんて思われるのが関の山。
何にもわからないのに、一応わかった風を装うのが大人?
いや、わからないもにはわからない、不思議なものは節後のままでしょう。
結局はなんだかよくわからないけど、今こうして生きていて、日常が過ぎていき、相変わらず自分である、ということが目の前に存在しているだけ。
どうやら、その法則には逆らえないということを長年かけて叩き込んできたような気分です。
宇宙の法則や秩序は、わからないことだらけ。
それなのに、なんだかわかった気になって、「そうに決まってる」なんて、もしかしたらとてつもなくもったいないことをしているのかもしれません。
わからないことをわかろうとすることも大事だし、不思議なものを追求して解明することも重要なことでしょう。
でも、何よりも大事なのは、わかったふりして、自分の可能性を制限するのではなく、わからない中の可能性に目を向けて、自分を自由にしていくことなんだと思います。
今までの人生では、「どうやらそうに違いない」という結果が出ていると信じていることでも、それはあくまでまだ仮説に過ぎず、他の可能性は消えていないかもしれないんですから。
この宇宙は全てホログラムのようなもの。
観測されるまで宇宙は存在していない。
そんなことも科学で語られ始めている今、「もしそうだとしたら」いったいどんな生き方を選択するのか?という問いかけがさらに重要になってくるでしょう。
科学技術が進歩し、シンギュラリティも近いと言われています。
あらゆるエネルギーが高度に高まり、加速度的に進歩しています。
それと同時に、私たちの意識もその流れに乗っているのを感じます。
今のままの意識でいたら、確実にその流れには乗れないでしょう。
意識の制限を外すとは、「わかってる」という制限の宇宙から、「わからない」という広大な世界に足を踏み入れること。
「知らないということを知っている」ということこそが新たな扉を開いてくれるはずです。