子供が事件を起こし、親の責任が問われる、というような場面をよく目にします。
昨日も、著名人の息子が、薬物違反で逮捕される、というニュースが流れていました。
子供が成人していようが、していまいが、親の責任を問う声が巻き起こり、その親が著名であればあるほど、その風当たりは激しいですね。
本来、その責任なんて、当事者の間でだけに関係することで、全く当事者でもない人間がその責任を問うなんて、全く意味のないことだと思うんですけどね。
過ちを犯した当の本人は、当然そのしでかしたことに対しての責任を取らなければならない。
では、親の責任とは何だろう?
究極的に、その出来事に関して、親が何の責任も取れないし、そんなことを「しでかして」しまった子供を更生させてあげることだってできない。
だからこそ、親としては苦しいし、悲しいしことだろうと思います。
育て方が悪かった
確かにそうでしょう。
でも、「育て方」なんて決まったものはないし、こうやることが正解とか、悪人になる育て方や、優秀になる育た方なんていうのもないんだと思います。
全ては結果論でしかない。
どんなに愛を込めて育てても、それが伝わらないことだってある。
どんなに行き届かない育て方だったとしても、愛が伝わっていることだってある。
どんなに完璧な子育てをしたって、その完璧さに押しつぶされることだってある。
どんなに後悔だらけの子育てだったとしても、求めていることがちゃんと伝わっていることだってある。
親子とは、切っても切れない、一番近いところで繋がっている特殊な人間関係です。
でも、だからといって一蓮托生だとは限らないし、運命をともにすべきものでもありません。
個と個のつながりであり、それ以上でもそれ以下でもない人間関係。
その中でも深く強く影響し合う関係性が親子なんだと思います。
最終的には、それぞれが、それぞれの個として何を学び成長し、存在して行くかが問われているということでしかない。
犯罪を犯し、どん底を選択したバカな自分として、何を感じ、そこから何を選び、人生をどう生きるのか?
溺愛し、信じていた息子からの、思いもよらない強烈なメッセージを受け取った親として、何を感じ、何を体験するのか?
どちらも、それを真正面から受け止めるのか、なお見て見ぬ振りをするのかが問われているんだと思います。
それを「問う」のは、マスコミでも、世間でも、被害者でもなく、自分自身。
切っても切れない愛で結ばれた親子だからこそ、そこに流れている純粋な愛情に気付くプロセスとして、その出来事を受け止めて行く。
愛しているからこそ恨む。
愛しているからこそ突き放す。
愛しているからこそ怒る。
愛しているからこそ伝える。
それまでしてこなかったことを体験するチャンスとして出来事を受け入れていくことこそ、親としての責任なのかもしれません。
ネガティブな出来事は感情を大きく揺さぶります。
だからこそ見えてくること、そこでしか見えないものが必ずあります。
迷惑をかけた誰かがいて、親として何かできることがあるならやればいい。
でも、それだけでは責任を取ったつもりになってはならない。
もっと大きな責任の所在に気付けた時、そこにある純粋な愛情が姿を表すことでしょう。
それは、出来事の収束や何かの回復、平穏を取り戻すだけに止まらない大きな影響力を持つはずです。
子を持つ親として、子供に最善を尽くしたいと思ってきたし、愛情を注いできたつもりです。
でも、最善とは程遠く、その愛情だってねじれたものもたくさん含まれているはずです。
幸い、それぞれが個として成長している姿を見せてくれています。
それでも、何が起きるか、どんな風に変化するかなんて、誰もわかりません。
信じるとは、どんなことが起きても、自分自身が逃げない覚悟にも似ているように思います。
そんな強い覚悟が迫られる存在なんて、子供以外にいないでしょう。
親になるとは、何度も何度もその覚悟を迫られ、人として成長する場を手に入れることなのかもしれませんね(^_−)−☆