カウンセリングに来られる方の多くは、「いい人」です。
今の世は、「いい人」が苦しい時代と言っていいのかもしれません。
違うか、ずっと昔から、「いい人」は苦しみとともに生きていたのかもしれません。
「いい人」をやめる。
これは、新しい人類の扉を開く重要なキーワードなのかもしれません。
「いい人」をやめるとは、「悪い人」になるとは全く違ったことです。
私たちは、自分が小さい頃に、誰かや何かのために、自分自身の存在を最適な存在に仕立てあげようとします。
その最適な存在が、自分にとっての「いい人」。
一般的な「いい人」という枠組みは、かなり曖昧なもので、基本的に「いい人」をひとくくりで定義することはできません。
それぞれの中にある「いい人」像。
それが、誰かのために最適な存在としての「いい人」。
問題のない家族の中で、問題を起こさないのが「いい人」だと信じている
問題だらけの家族の中で、問題解決をするのが「いい人」だと信じている
大人になりきれない親の代わりに、親の役割を担い面倒を見るのが「いい人」だと信じている
過保護な親の心情を察し、なにもしない、できないのが「いい人」だと信じている
完璧主義の親のために、ダメな人が「いい人」であると信じている
悪魔に魂を売った親のために、自分の魂を殺すのが「いい人」だと信じている
挙げればキリがないほど、人それぞれの中の奥深くに根付いている「いい人像」
悪人として存在しているのも、元を正せばその人にとって「いい人」を貫いた結果なのかもしれません。
「いい人」をやめるとは、その奥底にある「いい人」の定義を知ることが全てだと言っても過言ではないでしょう。
「やめる」ものが何なのかはっきりしなければ、やめることは絶対にできません。
そのやめるべき「いい人」がわかっていないから、「いい人をやめる」と言われても、「悪い人になる」しかイメージできないのもしょうがないでしょう。
「いい人」であることが決して悪いわけじゃないという前提で、「いい人」の何が問題なのかというと、「いい人」以外のやり方が選択できず、人生の選択肢が先細りになるということです。
簡単に言えば、制限がどんどん増えて、苦しくなるということです。
自分がどんな存在を「いい人」と評し、自分に課しているのか?
それは思っていることと全く違うのかもしれません。
一般的な「いい人」の定義なんて全くあてになりません。
自分だけの定義に気付き、それをやめる?のか続けるのか?の選択肢を持てることが最も重要なポイントだと思います。
あとは単純な選択の問題ですから。
それに気づいた人が、その「いい人」をやめたとき、悪人にはなりません。
それまで関わっていた人と疎遠になったり、それまで所属できていたコミュニティに関われなくなったり、友達が少なくなったり、人から非難されたり、孤独になったり、は起きうるでしょう。
でも、それは悪人ではありません。
それどころか、一方では、より深く愛され、正当に評価され、才能が発揮されていくという側面の方が大きいはずです。
「いい人」をやめるとは、誰かのための「いい人」から、自分にとっての「いい人」になるということなんだと思います。