2.20ct ボールダーオパールYGペンダント(^_−)−☆
ブラックオパールと同じオーストラリアで採れる石ですが、産地の地域的な違いや地質の違いによって、違う石として扱われます。
その違いは、母岩の色の違いとして現れます。
黒からグレーの粘土質の岩石にオパールが形成されるブラックオパールと、茶色い鉄鉱石の中で作られるボールダーオパール。
美しく研磨・成形されることの多いブラックオパールに対し、不定形で最低限の研磨しか施されないボールダーオパール。
エネルギーは似ていますが、キリッと端正で重厚なブラックオパールと、フワッと自由で軽快なボールダーオパールという印象です。
私がボールダーオパールを持つと、自然そのものに触れているような感覚を覚えます(´ω`)
自然の産物でありながら、不自然をも生み出せる存在である人間。
自然とともにある動物的な部分だけで生きていけたら、きっと不自然さは生まれないでしょう。
でも、たぶんそれだと、今の文明は存在しないだろうし、テクノロジーは発展していないでしょう。
人間という存在が生み出す不自然さこそが人間という存在の特徴なのかもしれません。
それがなかったら人間として存在しているとは言えず、それはそれで不自然だし、存在している意味もないでしょう。
でも、だからといって、その不自然の上にあぐらをかいていていいのかと言えば、それはまた違いますよね。
不自然だからこそ文化やテクノロジーが生み出すことができる反面、自然の秩序の中でしか生きられない人間。
行き過ぎた文化やテクノロジーは自然の力によって淘汰されます。
そうだとすると、自分らしくないという不自然さは、行き過ぎると自然の力によって淘汰されることになるのでしょう。
それは外的な力によって消される、壊されるということではなく、内的に力を失っていく、壊れていくということなんだと思います。
自分自身の不自然さを放っておくことは、自分自身の力を失っていくこと、自己破壊に向かうこと。
それが自然の摂理。
そうは言っても、自分自身の不自然さ、自分の自然な状態はなかなかわかりにくいものです。
「だってこれが自分だもん」という感覚を誰もが持っています。
でも、その感覚こそが不自然に作られた人工のものだったとしたら。
そこに疑問を持つ人は少ないでしょう。
社会の一員として受け入れられるために手に入れてきた様々なもの。
それによって「自分」という存在が作られています。
その作られ方は千差万別です。
それは決して悪いものでも、不自然なものでも、逆に良いもので、自然なものだと捉え、それで良しとし、「これが自分」と確信を持っています。
でも、「実は」「本当は」「正直なところ」「理想としては」・・・・のところに焦点を当てると、隠してきた自分、なかったことにした自分、見ないふりしてきた自分がたくさんいるでしょう。
そんな隠された、なかったことにされた、無視された自分が過去に閉じ込められている。
それが私たちです。
本来あるはずの、いるはずのエネルギーを閉じ込めた今の自分が、自然な自分。
本当にそうでしょうか?
ボールダーオパールは、その自然なエネルギーでより本来の自分に眠る自然なエネルギーを引き出す手伝いをしてくれます。
自分の思い込みを壊し、本来の自分のエネルギーとつながる。
思い込みとは、「だってこれが自分だもん」という感覚。
その感覚の外に出てみたとき、たくさんの気づきと、今まで知らなかった自分と出会うことでしょう。
でも、その外に出るのには勇気が必要です。
そのちょっとした勇気をより強くしてく後押ししてくれるボールダーオパール(^_−)−☆
このペンダントのオーナーさまもまだまだ、隠れた自分を抱えているのに、そこに気づいていない方。
今までのやり方、感覚ではその隠された本当の自分に出会うことは難しいでしょう。
これまでのやり方や考え方、感覚を捨てること、その外側に出ることは怖いものです。
でも、その先にある本当の自分の自然な姿に出会いたい。
そう思う限り、このボールダーオパールは、自然で自由なエネルギーで導いてくれることでしょう。
そして、自然な自分の美しさと強さに出会ったとき、きっとその喜びに涙するはずです。
誰も連れていってくれない、誰も教えてくれない、地図もないそこへの道は一人で行くしかありません。
その力が自分にあることを信じ、石たちの力を借りながら喜びの涙に辿り着いてほしいと願います(≧∇≦)