ただの石ころだけど

 宝石はとても価値が高く、綺麗で、特別感があり、人気があります。

 

でも、その構成する成分は、そこらへんに転がっている石ころとほとんど変わりません。

 

隕石など、地球上に存在しない成分を含んでいる鉱物でなければ、特別変わった物質が含まれているわけではありません。

 

そのどこにでもあるような物質が、ある特定の割合で、自然の作用によって、ある限られた場所で育ったのが宝石です。

 

不思議なことに、文明の栄えている場所よりも、そうではない場所で育つことが多いようです。

 

宝石として成長するまでは、30億年~数千万年かかるとも言われています。

 

気の遠くなるような長い時間を経て、出来上がり、たくさんの人に手によってここにあるのが宝石。

 

私たち人類の歴史が500万年だとしても、その成り立ちにロマンを感じます。

 

宝石の価値は、今の人類が勝手に付けたものです。

 

それは、人類の歴史と切っても切れない縁がある証拠とも言えます。

 

考えてみれば、私たちヒトも、マクロの視点でも、ミクロの視点でも、ただの動物にすぎません。

 

特別な何かで出来上がっているわけでもなければ、他の動物や植物よりも価値が高いわけでもない、地球の構成物の一部でしかない。

 

それでも、私たちに与えられた人間特有の意識が、今のこの世界を定義付けているに過ぎないとも言えます。

 

長い歴史の中で作られた「価値」という概念によって、私たちは様々な体験をすることが可能です。

 

それはいいでも悪いでも、正解でも間違いでもなく、ただ自然にそこに空気のように存在しているものなのかもしれません。

 

価値の意識がない世界は、戦争のない安心できる世界かもしれません。

 

でも、とてもつまらない、動物的で原始的な世界かもしれません。

 

いずれにしても、すでに価値という認識が在る世界に生まれてきた以上、それがないことにはできないのは間違いないでしょう。

 

ただ、価値という概念は実に不確実なものである上、それに影響されて作られた自我も、実に不確実です。

 

わたしたちは、ある地点までは、その不確実なものを、確実なものにするために全てのエネルギーを注ぎます。

 

そして、多くの場合、不確実なものを確実なものにしようと努力し続け、その目的を達することなく死んでいきます。

 

自分の信じる価値、自分の信じる自分という存在。

 

それは、固定されればされるほど、ものの本質から離れていくものです。

 

確実を目指せば目指すほど、自分から離れていく。

 

本来の自分は固定されない可能性に満ちた存在です。

 

そして、今の自分が下している「自分の価値」に関しても、それが本来の存在からかなりズレているのが私たちです。

 

ズレていない人なんて存在しません。

 

宝石は、その純粋な在り方で、私たちを自然な状態に導いてくれる存在であり、私たちの中にあるエネルギーを増幅させてくれる増幅装置です。

 

相対的価値ではない、絶対的価値。

 

宝石も人間もその絶対的価値で共鳴し合います。

 

私たちの純粋性を、増幅してくれるからこそ、それを持つ人に数々の奇跡を起こしてきたのが宝石です。

 

相対的価値に影響され、本来の自分から離れていこうとする人は、どんどん自分から離れていくでしょう。

 

逆に、自分の絶対的価値に気付こうとしている人には、外側に左右されない自分の無限の可能性を思い知ることになるでしょう。

 

どこに向かうかを宝石は示してくれません。

 

自分がどこを向いているのか?そしてどこに向かいたいのか?によって、同じ行動をしても、同じ学びをしても、同じ宝石を持っても、起きることは全く違います。

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