子供の頃、自分が「不自由だ!」なんて感じたことはありませんでした。
というより、今までの人生を通して、これまでも、そして今も、常に自由な意識を持っているのが、私の一番の強みなのかもしれないと思う今日この頃です( ✌︎’ω’)✌︎
何事にも囚われないということかもしれないし、集中して徹底的に囚われるということかもしれない
物事にこだわらないことかもしれないし、徹底的にこだわることかもしれない。
出来事を多角的に見ることかもしれないし、一点集中で深く掘り下げることかもしれない
とにかく、今目の前にあるものをどのように見て、どのように扱うかの自由度。
それこそが自由な意識なのかもしれません。
そうは言っても、私たちは完全に自由であった世界から、「個」という制限を選んでこの世に生まれてきた存在。
常に不自由とともに生きていることには抗えません。
自由だと思っていた子供時代、今の自分から見れば、相当に制限された世界に生きています。
好き勝手やっていたと思っていた、学生時代、守られている枠の中で粋がっていたに過ぎないと今なら見えます。
就職して、家を出て、自分で稼いで、社会人になり、自由を手に入れたと思っていたけど、それは、今までの枠組みが少し大きくなっただけでしかなかった。
ということは、こんなに自由な現実を生きている実感を持ちながら、未来の自分から見たら、今の自分はまだまだ、不自由を生きている存在に見えることでしょう。
家族だけの世界から一歩外に出て、ちょっと大きな世界に足を踏み出すと、それまでの場所がいかに窮屈で、制限だらけだったかが見えてくる。
コミュニティーから飛び出し、自分ひとりで立つと決めると、自然に身につけていた自分への制限が姿を表す。
自分自身の意識に目を向け、考え方の癖や、手放せない何かに気づくと、それまで無意識で自分を縛っていたエネルギーが実体化する。
制限が悪いものでも、敵でもなく、自分自身や、誰かや、何かを守るために身につけた大切な砦です。
だけど、その中にいるうちは、見えない景色があります。
それは、これまで知らなかった新たな世界。
そして、これまで知らなくても良かった、囚われていた自分の姿。
2次元の住人に3次元の世界は想像すらできません。
私たちは今4次元の世界にいて、その世界での理解が全てだと思っています。
この世界で説明ができることだけを信じ、この次元で証明できないことは無視して。
でも、それはきっと今の次元に囚われていて、この次元の常識に守られて、この次元の砦の壁を越えようとしない、壁の存在さえ知らないふりをしているにすぎないんだと思います。
こんな話をすると、すぐに、「次の次元に行くには・・・」なんて考えてしまいます。
でも、次の次元なんてすでに存在していて、新たに出来上がったものでもなければ、どこか遠いところにあるものでもないんだと思います。
意識の世界ではすぐにでも行けるところ。
だけど、制限の世界を選んでいる以上、身体を置いては行けないし、「個」を捨てては行けないところ。
逆に言えば、身体と「個」を捨てさえすればすぐにでも行けるでしょう。
でも、魂はそんなこと望んでいない。
望んでいるのは、この身体で、この自分で、次に行くことなんだと思います。
そうじゃなきゃ、「自分」として生まれてきた意味がない。
結局は、今目の前にある、知らず知らずに囚われている砦の壁を直視し、それをこの身体で、この自分で超えること。
その先にしか新たな次元(景色)は見えないし、到達できないのでしょう。
スペシャルな方法や、近道は存在しない。
自由な意識と、壁を超えるリアルな体験こそが全て。
「その先に広がっている世界を、自分の目で見たい!」と魂が望んでいる(^_−)−☆