昨日、登山家の栗城さんが下山中に亡くなったという訃報が飛び込んできました。
一昨日から、なんとなく嫌な感じがしていて、その栗城さんのアタックの動向に注意していたんですが、まさかこんなことになるなんて・・・
震災の翌年だったと思いますが、お会いしてお話しする機会がありました。
そのとき彼は9本の指が凍傷になり、切断せざるを得ない状況の中で、それ以外の方法がないかを探している状態でした。
でも、その指のことよりも、「自分が山に登ることの意味と、人生の使命」について悩んでいるようでした。
自分のやっていることが誰かのためになっているのか?今やっていることが人生の使命なのか?
影響力が大きくなればなるほど、そんな疑問が出てくるのは当然かもしれません。
私もその質問を受けましたが、そんなことわかるはずもなく、なんと答えていいか迷いました。
そして、
それが使命かどうかは分かりませんが、栗城さんが動画で、涙を流しながら山を登っている姿や、絶叫している姿を見て、真剣に生きてるエネルギーを感じました。
震災でたくさんの人が亡くなる場面に接し、生きること、死ぬことを否応無しに意識させられるところで、栗城さんの動画で生きるということを強烈に感じられました。
少なくとも私は、そのとき栗城さんのおかげで、たくさんのことを感じさせていただきましたよ。
というようなことを伝えました。
とても物静かで、誠実そうな彼の姿と、動画から流れるエネルギッシュで、エモーショナルな姿のギャップが、とても魅力的な方だと感じたのを思い出します。
危険がつきもののチェレンジだし、山で死ねたら本望だろうと片付けられることもできますが、やっぱりそんな素敵な存在がいなくなるのはとても切なくなりますね。
彼が吹雪の中でこの世を去るときに、人生を振り返って、どんな答えに辿り着いて、何を掴んで逝ったんだろう?
知る由はないけど、会って聞いてみたくなります。
あらためて、生きる意味や、人生の使命ってなんだろう?と考えちゃいます。
たぶん、そんなものは実はそんなに大層なものではなく、ほんのちょっとしたものなんだろうということだけは実感しています。
生と死は常に隣り合わせで、「生きる」のそばには「死ぬ」が、「死ぬ」のそばには「生きる」がくっついている。
「死」は忌み嫌われ、「死なない」ということが「生きる」ことのように感じてしまいがちですが、「死」が祝福だという視点もあり、必ずしも「死」は悪いものではないんだと思います。
当然とてつもなく悲しいことだけど・・・・
親は子供に死んでほしくないと思うのは当然、だから死なないための方法を教え、死なない=生きるの構図が出来上がるのは当然かもしれません。
でも、その死なないための人生が必ずしも望んだ人生とは限らないし、生きる意味や人生の使命は、死なない可能性とは全く無関係なのかもしれません。
生きている実感、このために生まれてきたという使命感は、きっと、死なないために生きていたら感じにくいものなんじゃないかと思います。
「生きる」が保証されていない、「死なない」が保証されていない中にこそ、その答えが眠っていて、それを求めるのが人間なおかもしれないなんて思います。
そして、生きていれば誰でもたくさんのものを背負い、死んだ方が楽かもしれないという可能性と共に生きると思います。
死んで楽になってしまいたい自分に対して、生きることを選択させるに足る理由が生きる意味なのかもしれないな〜なんて思います。
ということは、今生きているなら、必ずその意味をもっているはずだと。
その理由を探すことよりも、もうすでに生きる意味を持っている自分としてどんな生き方を選択するかが重要だと思います。
そして、使命とは、どこかにあるものではなく、今目の前にあるもの、ことの延長線上につながっている何かなんだと思います。
使命が何なのかを探すよりも、今目の前のことに真剣に取り組むことで見えてくる道を見逃さないことで見つかる宝物のようなものなのかもしれません。