私は、この世に存在するもの全てがエネルギーだと思っていています( ^ω^ )
そして、ありとあらゆるものがエネルギーの強弱、濃淡、高低、緩急、などによって形を変えて存在しているに過ぎないんだと。
物理の世界では、万物の基になる「何か」について研究がすすめられ、この宇宙の成り立ちを説明しようとしています。
そんな世界でわかってきたことは、ビッグバン直後に生まれたものは、4つの粒子だということをつきとめ、さらにそのもとになっているのは「ひも」であるということ。
その「ひも」は、粒子性と波動性を持っているもの?らしく、観測されるまでは波として振る舞い、観測すると粒子として振る舞うそうです。
波であり粒である?
宇宙の全てを説明するすべを私たちはまだ持ちません。
ただ、今分かってきていることで今目の前にある世界を見たとき、これまでと違った視点で世界を見ることが可能になってきます。
生まれてからこれまで教えられてきた常識が必ずしも真実であるとは限らず、まったく違っていたと知ることを体験したことは誰にでもあるはずです。
これで間違いない、これが正しい、これが最善、これが常識、これが安全、これが効果的と信じられてきたものが、実は真逆に変わってしまうことなんてよくあります。
逆に、これまで、それはありえない、それは危険、それが間違っている、それは存在しない、それは効果がないとされていたことが真逆になることだってあります。
「ひも」が相容れないふたつの性質を持っていて、その「ひも」によってこの宇宙が作られている。
そう考えると、もしかしたら、物事は常にいくつもの側面を持っていて、私たちが何かしらの意図を持って、全体の中の一部を切り取って、「そうである」という現実を作っているのではないかと思えてきます。
目の前に広がる現実世界は、自分の意図したとおりに作り出された、エネルギー全体の一部にすぎないのではないかと思うんです。
私という存在が、全ての可能性を含んだ固定されていない波状の全体から、一部を切り取って見ているのが、現実世界と自分が呼んでいる、目の前に広がる世界なのかもしれません。
目の前に見える動かしようのないように感じる現実。
それは、「そうである」と信じている自分の意思が作っているもの。
「自分の世界は、100%自分が作っている」、という言葉は、精神世界の話ではなく、化学の話のように思えてきます。
証明やエビデンス、検証結果、研究結果、有識者のお墨付きなどは信憑性が高く、概ね「間違いない」と思いがちです。
でも、全てが正しいとは限らないし、それが未来で覆る可能性は常に否定できません。
誰かが言った正しさは、誰かの世界では間違いかもしれないし、たまたま同じかもしれない。
世間と言われる得体の知れないエネルギーが強いる常識は、誰にとっても常識であるとは限らない。
それでいいんだと思います。皆が一緒である必要はない。
「自分がどうありたいか」だけが確かなものなんだと思います。
様々なことが明らかになり、あらゆる可能性にオープンな今の時代、そんな時代に生きている私たち。
私たちに求められるのは、正解を探すことや、正しさを証明すること、信念を貫くこと、ましてや競って勝つことではなく、自分の感覚を信じ、あらゆる可能性にオープンになることなのではないでしょうか。
自分の感覚を信じられないと、外側のたくさんのエネルギーに流されてしまう。
自分の見えている世界、信じている意識だけにしがみついていると柔軟性を失い壊れてしまう。
エネルギーとは、特殊な力ではなく、全体。
その全体から限定的に切り取って使うのは自分自身。
だったら、自由な意識で、もっと思い切って、大胆に使っていいかもしれません。