知らないということを知っている

 

 ソクラテスが言ったとか、言わないとかはどうでもいいけど、「無知の知」という言葉があり、いろんな人がいろんな意味づけがされています。

 

「悟り」と同じように、言葉だけでは意味がなく、その状態にを知ったとき初めて理解できることなんだと思います。

 

当然何も知らなくていいということでも、全てを知り得ないということでも、知らない方が優っているわけでもないでしょう。

 

 全てを知ったつもりになっているともったいないよ

 

ということなんじゃないかと思います。

 

私たちは宇宙で起きていることほんの一部しか知りません。

 

確かに知らないことだらけです。

 

でも、だからこそ、知ろうとすることで新しい発見をし、知ることで進化してきました。

 

私たちは、経験によって知ったことは確信に変わり、当たり前になっていきます。

 

そして、それをベースとして新しいことを知り、確信し、当たり前をつくっていきます。

 

当たり前や、普通は、その経験値が高ければ高いほど、確信が強ければ強いほど便利で、社会で生きる上で有益なものになります。

 

これまでの世界では、そのデータベース量が多い人が識者と呼ばれ、信頼を獲得し、賞賛され、力を持ってきました。

 

でも、その普通や当たり前が日替わりで変わるような現代、それは、ただの幻想でしかなく、ひとつの可能性にすぎないということに気づいている人も増えているのではないでしょうか。

 

昨日の常識が今日の非常識。

 

そんな今だからこそ、「知らないということを知っている」の感覚が大事なんだと思います。

 

知ったつもりになっていることこそ、振り返り、当たり前にこそ疑いを持つ。

 

知ったつもりや、当たり前は、自分の盲点になってしまっている可能性が大です。

 

盲点は、その存在に気付かなければ見ることができません。

 

それはどんなにがんばっても盲点である以上、知ることのない領域をもっているということです。

 

 

盲点の最たるものは「自分」。

 

「自分のことは自分が一番よく知っている。」と思っていませんか?

 

私は、心理学に出会い、

 

 自分のことは自分が一番知らない

 

ということを思い知りました。

 

まさに盲点。

 

知っているつもりになっていた「自分」という存在。

 

特に頭の中は誰にも見られない自分だけのものなんだから、自分以外にそれを知っている人なんていない、「自分だけが知っている世界」だと思い込んでいました。

 

ところが、その頭の中でさえ、知らないことだらけ・・・・

 

一生かかっても全容を知ることは叶わないことを思い知りました。

 

「知っている」は、安心感があります。

 

でも、それは、

 

 見たくない何かを見ないで済むための目隠し

 

 手放したくない何かを持ち続けるための許可証

 

 守りたい何かを守るための防御壁

 

なのかもしれません。

 

知らないことは恥ずかしいことでも、ダメなことでもなく、自然なことです。

 

でも、「知る」ということは、喜びであり、豊かさであり、成長です。

 

知らない(盲点)に気付き、そこに光を当てていく。

 

それが「知る」ということなのかもしれません。

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